弘川寺(西行法師終焉の地)      令和2年7月
 証券会社を退職し20年近くになりますが、当時親しくして頂いた友人に
大阪府の河南町にお住まいの方がおられます。年賀状の交換をする位で日頃お会いする事も無かったのですが、先日八尾市に行く用事があり、ついでと言うのは失礼ですが、足を伸ばし訪問して旧交を温めてまいりました。
お話口調や雰囲気は昔と変わらず懐かしかったのですが、流石に髪には白いものが混じり20年の歳月を感じました。しかし私の禿げ頭ではその様な事を口に出来る立場では無く、髪の事は話題にもなりませんでした。
彼も私の禿げ頭と大きなお腹を見、20年の歳月を感じていたのでしょう。

河南町とは葛城山の麓に広がる静かな農村地域で、村の中に入り組んだ道筋などは、私の生まれ育った和歌山の実家付近と変わらず懐かしい思いにかられました。複雑に入り組んだ道でしたのでカーナビが無ければ友人の家には辿り着けなかっと思います。
葛城山とは奈良盆地と大阪平野を隔てる山脈、生駒山や信貴山・金剛山に連なる山です。役行者
(えんのぎょうじゃ)、行基(ぎょうき)菩薩や弓削道鏡が修行した山と言われツツジの花の美しい山です。
   
     葛城山のツツジ                    二上山
近くには太子町の叡福寺
(聖徳太子のお墓があります。)近つ飛鳥博物館や千早赤阪村の金剛山、又二上山や當麻寺等があります。
二上山と葛城山の間を竹ノ内街道(日本最古の街道)が通り、古代この付近は蘇我氏の勢力の強い地域で蘇我氏と縁の深い敏達天皇・用明天皇・推古天皇・孝徳天皇などの天皇陵が集中し王陵の谷と言われています。
古代史の好きな方には見逃せない所が多く、新聞社主催の歴史深訪などに参加して訪れた事がありますが、西行法師の終焉の地と言われる弘川寺には未だ行った事が無く、友人の家から車で15分程の所でしたので、お参りさせて頂きました。

弘川寺は葛城山を少し登った見晴らしの良い高台にあり、奈良時代役行者
(えんのぎょうじゃ)により開創されたと言われ歴史と由緒あるお寺さんです。
田舎の寺ですから小さなお寺だと思っていたのですが、なかなか立派なお寺さんでした。私の様に西行さんを訪ねてお参りされる方が多く、お布施や入館料で儲かっているのだと思います。
(他人様の財布を覗きたくなる悪い癖)
駐車場は完備し広くて美しい庭園も整備され、沢山の僧房を抱え、鉄筋の西行記念館も建てられていましたが、コロナの所為でしょうか参拝者はまばらでした。

(入館料は500円でしたが、西行墳にお参りするだけですと入館料は要らない様です。
減らず口をたたけば、鎌倉時代は、お墓に五輪の塔を建てても円墳を造る事は無かったのでは?。
私の記憶違いかも知れませんが、白洲正子さんも西行墳には疑問を呈していたと思います。
発掘調査をすれば奈良時代の遺物が出てくるのでは、と思ってしまいます。)


東大阪市に小学校以来の友人も住んでおられるのですが、時間も無く今回お伺いする事は遠慮させて頂きました。彼は短歌が好きでNHKや新聞各社に投稿されており、度度入選されておられるそうですので、弘川寺には何度もお参りされ、西行法師に歌の手ほどきを受けておられるのかも知れません。
       
      弘川寺本堂                     西行墳
お寺の前までは車で行けましたが、西行墳には細くて急峻な道を登りましたので、喫煙の所為で肺活量の衰えている私は、肩で息をしながらお参りさせて頂きました。
    
願わくは花の下にて春死なむ
        そのきさらぎの望月のころ
     西行

西行法師は希望通り文治6年(1190年)2月16日73歳で入滅されました。
旧暦の2月ですから現代の3月頃で満月の翌日ですから、歌の通り満開の桜と満月を充分に楽しんでから逝かれたのです。

    
願わくは腹の上にて春死なむ
        その餅肌の胸に抱かれて
    呆け爺
西行法師の希望は叶いましたが、私の希望は叶うのでしょうか?。
(喫煙習慣は心筋梗塞のリスクを高めるそうですが、腹上死が出来れば本望です。
私はそれを願って煙草を吸っているのですが、肝心のお腹の上に乗せて頂けるお姉ちゃんがおられません。腹囲100㎝を超えるお腹では、重くて乗せては頂けないのでしょうか?。)


お寺のパンフレットによれば良寛和尚や釈超空
(折口信夫・しのぶ)も訪れていますので他にも大勢の歌人が訪れているのだと思います。
    
たをりこし花の色香はうすくとも
       
あわれみたまひ心ばかりは    良寛和尚
    
古つかをまかづる頃よ夕立ちぬ
       
弘川の村をぬれてや行かむ  釈超空
(釈超空(折口信夫)は、同性愛者ですが、民族学者・国文学者・歌人として高名な方です。
古代エジプトに「死者の書」があるそうですが、折口信夫も日本版の「死者の書」を書いています。
當麻寺の中将姫(平安時代・藤原鎌足の孫)と二上山に葬られた大津皇子(飛鳥時代・天武天皇の皇子・皇位継承権がある為叔母の持統天皇に謀反の罪で陥れられる。享年24歳)が時空を超え交感し、蓮糸で曼荼羅を織り上げる不思議な話です。
随分昔、呆け爺になる前に読んだのですが、当時からスケベ話し以外には興味は無く、私には面白く無くて、読み終えるのに時間がかかった覚えがあります。)
     


最近嬉しかった事

先日久し振りにシャツを買いに行ってきました。デパートや専門店には国産の衣料品も販売されていると思うのですが、高価すぎて低所得者の私如きには手が出ません。近くの安売り店「島村」に行ったのですが、中国製は少なくなり、ミャンミャーやベトナム製が多くなっていました。
私は随分前から中国製品は買わないと決めており、ユニクロも中国で製造していると聞きましたので最近はユニクロ製品も買いません。
東南アジア製品が増えた事を嬉しく思い、これからは時々島村に寄っておしゃれな洋服を探したいと思います。
「馬子にも衣装」と申します。老いぼれ爺と雖も、少しは渋い魅力ある爺となり、お姉さんや後家さんに見直して頂けるかも知れません。

(天津甘栗が好きだったのですが、随分長い間食べた事がありません。国産の栗は高価すぎて私の口は腫れあがると思いますし、恐らく東南アジア製の甘栗など売られる事は無いと思いますので、生涯甘栗を食べる事は出来ないのでしょう。)


武漢風邪・軍事・外交・政局と偏屈爺は言いたいことが山ほどありますが
呆け爺がたわ言を書き連ねた所で面白くも無く、お読み頂けないと思いますので、今回は愚論を述べる事は控えます。