新開地・福原界隈 平成28年7月
嘗て神戸の繁華街は、東の浅草西の新開地・東の吉原西の福原と言われ、新開地・福原(柳筋)周辺は日本有数の歓楽街でした。近くの海岸沿いに三菱重工と川崎重工の大きな工場が、又少し離れた所には神戸製鋼の工場等もあり、神戸港のコンテナ取扱量も昭和40年代後半から50年代前半迄世界一で、その後もロッテルダム・ニュウヨークに次ぐ国際的な三大港湾として世界貿易の中心軸として、神戸は活気に溢れた町でした。
平清盛が福原京に遷都を行いましたが今の福原とは直接の関係はありません。
福原京跡地は新開地より北へ2km近く上った所、荒田町・雪見御所町付近になりま
す。現在の福原町は明治時代に名付けられました。赤線廃止前は東京の新吉原・
京都の島原・と共に「三ハラ」と言われる程賑わったそうです。
私が高校卒業後大坂で働いていた頃先輩が時々福原へ(当時はトルコ風呂)遊びに
行く姿を見、給料の少ない私には羨ましくてならなかった事を思い出します。
新開地の地名は、明治の頃氾濫を繰り返した湊川の付け替え工事が行われ、残った
旧河川敷を開発して名付けられました。
関西以外にお住まいの方は地理が良く分からないと思いますが、三宮から二駅姫路
よりのJR神戸駅から徒歩15分位です。私鉄の阪急・阪神ですと新開地駅が有ります。
それが昭和60年代以降、造船業の衰退と関西経済の地盤沈下に伴い少しずつ精彩を失い、更に平成7年の阪神淡路大震が追い打ちをかけ、現代では神戸港のコンテナ取扱量は世界ランク52位(震災前は三位)・国内でも東京・横浜・名古屋の後塵を拝し4位に落ち込む有り様で、神戸市の経済停滞に伴い新開地周辺の人通りも随分少なくなり往年の賑わいが無くなった事は寂しい限りです。(神戸の繁華街が三宮周辺に移った事もありますが。)
(神戸経済の衰退が暴力団の力関係にも影響があったのかもしれません。山口組は
神戸が発祥ですが、現代の組長篠田建市は名古屋の暴力団「弘道会」出身です。
暴力団もトヨタバックの名古屋市の方が金回りが良いのかも知れません。
神戸の山口組は名古屋に乗っ取られたと感じ「神戸山口組」へと分裂したのかも
知れません。) |