尾崎放哉 平成31年2月 毎回スケベな話ばかりでは、私の人間性が疑われます。時には真面目な本も 読んでいる事をお知らせしたく、今回は放哉を取りあげました。 |
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左 須磨寺境内の放哉の句碑 【こんな良い月を ひとりで見て寝る】 右 小豆島、西光寺の放哉の 句碑 【咳をしても一人】 |
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図書館で「尾崎放哉・つぶやきが詩になるとき・河出書房」を借りました。 若い頃は、尾崎放哉や種田山頭火の名前は全く知らず、季語や五七 五調にも捉(捕?)われない自由律俳句が有る事すら知りませんでした。 僅かに荻原井泉水なる俳人がおられる事位は知っていましたが、自由律 俳句の創始者だとも知らず、当然彼等の俳句を読んだ事もありません。 30年前証券界に勤めていた頃、バブル崩壊で顧客対応とノルマ達成に 悪戦苦闘を続けていましたが、証券週刊誌「株式日本」の連載コラムで 山頭火の句が紹介されており、仕事に追いまくられる情けない我が身と 山頭火を対比させ、毎回面白く読ませて頂いたのが山頭火との出会い です。証券会社を退職後神戸に住まいを移し、須磨寺周辺を散策した 際放哉の句碑と出会い、山頭火以外にも自由律俳句を詠む俳人がお られた事を知りました。放哉は結核を病みながら亡くなる前年の9カ月を 須磨寺で過ごし多くの俳句を残しています。 こんなのが俳句なのでしょうか?。単に独り言を呟いているだけの様ですが!。 是が俳句なら私にも作れます、独り言を羅列すれば良いのでしょう。 朝から酒だ ヒヤのコップ酒 濁り酒濁れる飲みて膝枕、・・・・島崎藤村の詩を盗作しました・・私の濁り酒とは醸造アルコール・ 糖類・酸味料添加で紙パック入りの安酒です。膝枕して頂けるお姉さんはいないでしょうかネ オハヨウ 今朝も元気だ煙草が美味い 煙草が臭いだと ウルサイ黙れ 婆さん機嫌直してくれよ ・・・・この婆さんは家内です おおっ寒っ仕事休みたい 給料だけくれ し お姉ちゃん、僕と付き合ってよ 姉ちゃんで無くとも婆さんでいいよ・・・・この婆さんは家内以外です 息子よ喜べ 里帰りじゃ ・・・息子も里も説明の必要は無いと思います。 勃(た)て息子 突撃の時は来た 白き泡吹き 討ち死にせん 如何ですか?。放哉の句と私の句?、甲乙付け難いでしょう。 エッ、・・・貴兄にはこの句が分からないのですか?。 「こんなのは俳句じゃ無い、乙どころか丙・丁を通り越し最後の癸(き)にも及ばぬ グータラでスケベなだけの愚作だ。」と、そんな酷い事を言われるのですか!。 スケベは私だけではありません。妻子を捨て教職も捨て女と逃避行した堀井春一郎 と言う俳人がおられます 女陰(ほと)の中に男ほろびて入りにけり 痴情の汗今宵九州の星赤し 山頭火もスケベな句を残しています。 ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯。・・・・・山口県湯田温泉 水を渡って女買いに行く・・・・・長崎県島原で49歳の時、この時山頭火は 金が無くなり宿で足止めされ友人に借金要請の手紙を送っています。 性慾もなくなった雑草の月かげで・・・・51歳の時の句です。貧しい放浪生活 を続ければ老いるのも早いのでしょう。 私は放哉・山頭火や堀井氏の様に全てを捨てる事は出来ず、無明の境を彷徨う ばかりですがなまじ文学的才能が無かった事が良かったのでしょうか?。 それとも捨てる事が出来なかったから、文学の才能を発揮出来ないのでしょうか?。 「捨てようが捨てまいが貴様如きに文学の才能など有る訳が無い。」と貴兄貴姉の 嘲笑の声が聞こえてまいります。 放哉は東大法科を出ながら酒で人生を誤った男です。 (俳諧の世界では優れた業績を残されたのでしょうが、 経済的には破綻、家庭生活は崩壊してしまいました。) 初恋の女性、従妹の沢芳衛との結婚を親族に反対され結婚出来なか った事が酒浸りの原因との説もありますが、そんな事で酒浸りになるとは 思えません。それでは6年後に結婚した馨が余りにも可哀そうすぎるではあ りませんか?。馨とは12年の結婚生活を過ごしていますが、当時の俳句 からは仲の良い夫婦の様子が窺えます。芳衛の事などは過去の女と割 り切っていたと思います。 芳衛との破談が飲酒の原因なら、女に振られ続けの私などは毎日一斗 の酒を飲まねばなりません。 「李白一斗詩百篇」と杜甫は言っています。李白も女に振られ続けの人 生だったのでしょうか?。 (私など・私なぞ・どちらが正しい発音なのでしょうか?。紀州育ちの私には分かり ません。・・・27年5月の和歌山県人の悲哀をご参照。 李白杜甫の時代の中国の酒は未だ蒸留酒は無く、アルコール度数が低くビール並み で、一斗も現代の7~8升だったそうです。それにしてもアルコール度数で換算すれば 日本酒3~4升にもなり桁外れの大酒呑みだったのです。 芳衛は別の男性と結婚し離婚し昭和38年亡くなっていますが、後年放哉を愛して いた頃を懐かしく思い出している文章を残しているそうです。) 放哉は大学卒業後、通信社に一年勤め退職後東洋生命に入社し 坂根馨(20歳)と結婚します。東洋生命とは現代の朝日生命の前身の会 社ですが、多分中学・高校・大学とエリートコースを歩んで来てプライドの 高い放哉には面白く無い職場だったのではないでしょうか?。 放哉は官僚になれず希望より格下の会社に就職した事に不満があり、 酒浸りの生活に陥ったのだと、下司の勘繰りですが私は思っています。 通信社を僅か一年で辞めた理由は分かりませんが、これも高すぎる プライドが原因ではないでしょうか?。 (当時、証券会社は株屋と言われ、実業では無く虚業の様に思われ格下企業と 思われていました。当時の証券界は小学校卒業後丁稚奉公から始める方が大半 で、東大はおろか官立大学卒業生がおられた話は聞いた事がありません。 生保会社も他人の不幸を種の商売ですから同じ様に思われていたと思います。) 鳥取の田舎から東大法科に合格すれば、親戚友人だけでは無く町を挙 げて応援して頂き、町の名誉にもなったのでしょう。それが生保会社に就 職したのでは故郷に錦を飾る事は出来ません。放哉のプライドは痛く傷 ついたと思われます。その会社ですら馘にされては実業界で名を成す事 は出来ず、俳諧の世界にのめり込む他、道は無かったのでしょう。 (当時は学力の地域間格差は今程大きくは無かったのでしょう。私が卒業した和歌山 県の田辺高校(当時中学)でもそこそこの人数の方が東大京大に進学しています。) 生活に困窮しても故郷島根に帰省した記録は無く放哉は落魄の身を故 郷に晒す事が出来なかったのだと思います。彼の井泉水宛ての手紙に は故郷島根と小豆島の悪口が沢山書かれています。彼の鬱積した精神 状況を表しているのでしょう。 プライドが高すぎるのも考えもので、奥様を始め回りの方々に迷惑をかけ てしまいます。 東洋生命では幹部職員として重用されながらも、朝から酒を飲み気儘な 勤務ぶりの為追われる様にして退社し、朝鮮火災の支配人として京城に 赴任しますが、又しても酒が原因で1年で馘になります。 (東洋生命も勤務態度の悪い放哉を11年も雇用し、関連会社の朝鮮火災を紹介し 再起のチャンスを与えたのですから、東大卒の看板は大きかったのです。) 再起を期して奥様を連れ満州に渡りますが、仕事は見つからず結核性 の肋膜炎を患い、帰国途上の船上で放哉は馨に心中をもちかけます。 大正12年の事で、結婚後12年、放哉38歳、馨31歳の時でした。 放哉は心中を拒んだ妻を鳥取の彼の姉に預けようとしました。 自尊心だけが高く大酒呑みで生活力の無い男にも拘わらず、従順に従 ってきた妻に対しこれ程酷い仕打ちはありません。 賢婦の馨は、これまで夫を支え続けてきましたが、これ以上夫を支え続け る事が出来ないと別居を決意し、大阪の東洋紡の寄宿舎の寮母に就 職し、放哉は京都の一登園(民間の養護施設の様な所)の世話になります。 以降二人が会う事はありません。流石に放哉の葬式には出席されました が、馨の心の中を窺い知る事は出来ませんが、三年間一度も見舞いに 行かなかったとは、余程固い決意があったのでしょう。 (確か、山頭火の葬儀に息子は出席しましたが奥様は欠席された話を読んだ事が あります。奥様はこんな男と結婚した事を後悔していたのでしょう。私には彼等の様に 全てを捨てて一つの世界に没頭する程の勇気も覇気も又才能もありません。 昨年山口県で行方不明の2歳の子供を救い出した尾畠春夫氏がおられましたが、 彼のボランティア活動に没頭する姿には山頭火や放哉に似た物を感じます。 尾畠氏の奥様も5年前お出かけになられ、未だお帰りで無いと聞きましたが尾畠氏の 葬儀の時は出席されるのでしょうか?。・・・30年8月の暑中見舞の追記参照) 一登園でも長続きせず、知恩院の寺男・神戸の須磨寺・福井の常高寺と転々とし、三年後小豆島の西光寺で41歳の生涯を終えます。 この三年間は放哉は句作の為のみに生きている様で夥しい句を残してい ます。病状が重くなり井泉水が入院を勧めた時「放哉は詩人として死にた い。」と入院を断ったそうです。俳人でも歌人でも無く「詩人」としてとの言葉には放哉の強い想いがあったのでしょう。 本からの受け売りですが「ピカソも最初は具象の絵を描き、デッサン力がしっかりしていて、その上で抽象絵画が生まれた訳で基礎がしっかりしていないと抽象絵画はダメなんで、これはそのまま俳句でも言えるようです。 放哉は学生の頃から定型句に才能を示し、しっかりとした基礎がありその 上に自由律俳句ができたのです。」この様な事が書かれていました。 私にはピカソの絵も理解出来ませんが、放哉の句も良く分かりません。 (余談ですが孫娘がスターバックスでアルバイトをしていて、スタバの珈琲をお裾分 けしてくれました。しかし私にはスーパーで売られているUCCの珈琲等との違いが分か りません。俳句も分からなければ珈琲の味も分からず、私は「違いの分からぬ男」 で、遠藤周作にも遠く及びません。) 奥様の馨は放哉の死の四年後チフスの実弟を看病していて感染し夫の 後を追います。馨39歳でした。私は放哉よりも馨が哀れに思えます。 明治大正の頃とは言え、これ程素敵な女性はおられません。放哉などと 結婚しなければもっと幸せな生涯を送れたと思います。 (放哉は芳衛との結婚が認められなかった時も芳衛に心中を迫っています。 私は死にたいと思う程思い悩んだ事はありませんが、人を巻き添えなどにせず 自分一人で死ねば良いのに・・・と、放哉は甘えた男だったのかも知れません。 放哉は余りにも真面目すぎ、融通の利かない男で思い詰めると徹底的に進む男 だったのでしょう。だから自由律俳句の世界にも徹底して進んだのでしょう。 藤村操(華厳の滝で「巌頭之感」の遺書を残し投身自殺)と一高の同級生です。 藤村は死の三日前教師の夏目漱石に厳しく叱責されたそうです。この事が自殺の 原因とは思えませんが、その後漱石は長く悩んでいたそうです。 放哉の句で私が知っていた句は冒頭の二句位です。 咳をしても一人・・・・・・・西光寺、南郷庵で こんな良い月を一人で見て寝る・・・須磨寺で 別居後、尾羽うち枯らした放哉の回りには女性の影は見えません。 奥様を思い出しているとしか思えない様な句が沢山残されています。 女に捨てられたうす雪の夜の街灯・・・・・須磨寺で すばらしい乳房だ蚊が居る・・・・・・・・・・・西光寺、南郷庵で 妻の手を感じ熱が出ている夜中・・・・・・西光寺、南郷庵で 旅からもどった妻の顔とぶつかった・・・・西光寺、南郷庵で 妻がシヤがんでる柳己散る葉ある・・・・西光寺、南郷庵で 私には、咳の句も月の句も一人では無く、妻が側にいてくれたらと、放哉 の寂しい気持ちが現れている様に思えます。(自業自得ですが) 朝鮮時代の句に 松の実ほつほつ食べる燈火の児無き夫婦 が、あります。馨は婦人病の手術で子供の産めない体になっていました が二人の仲睦まじい様子が偲ばれます。 放哉は俳諧で孤高の世界を切り開く事で幸せだったのでしょうか?。 下らぬプライドなど打ち捨て、句作は趣味程度に抑え真面目な会社員と なり奥様との二人の幸せな生活を送る方が遥かに良かったのにと、・・・ 俳句は元より珈琲の味の違いすらも分からぬ私は思ってしまいます。 底の抜けた柄杓で水を呑まうとした この句を作家の吉屋信子氏は「そうなのだ!放哉は底の無い柄杓を持 って世に生まれ一生その底なし柄杓を離さずにいた生涯だった!。その柄 杓を思うがまなに持ち続けて彼は妻を不仕合せにしたエゴイストだ」。と言 っています。その上で人は誰しも少しは「厭離穢土」の気持ちが有るものの 、自分では決して実現出来ない厭離穢土を見事にやってのけた男 「尾崎放哉」に魅力と憧憬を寄せる。と語っています。 (厭離穢土(おんりえど)とは欣求浄土(ごんぐじょうど)と対の言葉で、穢れた世界から 離れて極楽浄土へ行きたい。即ち死んで極楽へ行きたいとの意味になります。 放哉は自ら死を望んでいた様にも思われ、吉屋氏の様な見方も出来るのでしょう。) 口をあけぬ蜆死んでゐる 泣き言一つ言わずに静かに死んで行く蜆(しじみ)の様に、放哉も静かに 死んで逝きたくてこんな句を詠んだのでしょう。 荻原朔太郎は放哉と同時代の詩人ですが、「月に吠える」の詩集の中 に、「くさった蛤」との詩があります。私如きに比較は出来ませんが、放哉 の句がより心情を表している様に思います。 本には他にも沢山の句が紹介されていましたが、私には句の良さが理解 出来ませんのでので省略させて頂きます。 所詮私如きには、何事につけ表面を浅くなぞるだけで本質を深く理解出 来る能力はありません。(スケベ本を読む位が私の身の丈に合っているのでしょう。) 宮沢賢治が理解出来ない様に、放哉も理解出来ません。 (私には理解出来ない放哉や山頭火ですが、なにゆえ彼等の句に惹かれる のでしょうか?。吉屋信子氏の言われる様に私には実行出来ないけれど 厭離穢土を求める気持ち・或は破滅願望や世を捨て放浪の旅への憧れの 意識があるのでしょうか?。・・・そんな気持ちは全く無いと思いたいのですが?、 自由社会とは言いながら、目には見えずとも社会のしがらみ・道徳・規範・ 家族への責任感等でがんじがらめに縛られた半生を振り返り、山頭火・放哉の 様な自由人に憧れる気持ちがあるのでしょう。しかし、しがらみの中で生き続ける 事にも大いなる喜びがあり、私には自由と引き換えに全てを投げ捨てるも勇気も 気概もありません。 西行の様に大金持ちなら気儘な旅を続けて遊び暮らしたいとは思いますが・・・。 西行と放哉・山頭火は同列には考えられないと思います。放哉・山頭火は 世捨て人、西行は同僚の死や待賢門院に振られた事が出家の原因と言われ ますが、宮仕えに飽きた遊び人、(渥美清の寅さんの様に)と言えるでしょう。 放哉は41歳、山頭火は58歳で亡くなりましたが西行は73歳迄長生きしています。 乞食の様な生活を送った放哉・山頭火と、優雅に生きれた西行との違いでしょう。 西行は紀州粉河寺周辺に広大な荘園を持ち出家後もお金に困る事は無く、 妻子への経済的な責任も果たしています。) 須磨寺や須磨浦公園には芭蕉・蕪村・子規・虚子・を始め、多くの方々 の句碑が沢山建立されています。叉良寛の歌碑や山本周五郎・陳舜 臣の文学碑等々、他にも私の存じ上げない方々の歌碑・句碑が沢山 建てられています。蕪村の句「春の海ひねもすのたりのたりかな」の句碑も 建てられていますが、この句は須磨では無く蕪村の母の里、丹後の与謝 村(京都府与謝野町)で詠まれたとの説もあります。 ![]() ![]() 須磨寺の平敦盛と熊谷直実の戦いの像 須磨浦公園の源平合戦の碑 須磨浦公園は源平の戦いで義経が鵯越の逆落としをした地とされ、近く の一の谷には安徳天皇の内裏跡地と言われる所に安徳宮と言う小さな お宮様も祭られており、他にも平敦盛の首塚等記念碑が沢山建立され ています。 (私は鵯越の逆落としは須磨では無く、7~8㎞東の鵯越や雪見御所の地名が 残っている兵庫区周辺で行われたと思っています。当時平家は協力な水軍力を 誇っていましたが、須磨浦公園前は明石海峡があり海流が早く軍船を停泊させられま せん。当然、天然の良港と言われ平清盛が港湾整備をした兵庫区和田岬の大泊 (現代の神戸中央市場や川重・三菱重工の工場付近、)に軍船を集結させていた はずです。須磨浦公園からは距離があり、源氏の襲撃の際安徳天皇を無事に船に 避難させる事は困難ですが、和田岬大泊周辺に天皇がお住まいだと避難は簡単で す。叉平敦盛は船に向かって海に入った所を熊谷直実に呼び止められたのですから 熊谷と敦盛の戦いも須磨浦海岸では無く和田岬で行われたと思います。) |
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