良寛和尚 平成31年4月 |
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図書館で水上勉著「良寛」を借りてまいりました。 神戸の図書館には夥しい数の良寛和尚の解説書が有りました。 これ程沢山の本が有るとは、良寛和尚の考え・生き方に共感し研究をさ れる方々が大勢おらるのでしょう。 私も、数年前著者は忘れましたが良寛の伝記を読んだ事がありましたが 、水上氏は少年時代禅宗寺院の小僧として修行されていた事を思い出 し、宗教者として私如き凡夫とは異なった視点からの良寛像を教えて頂 けるかと思いました。 (水上氏は臨済宗、良寛和尚は曹洞宗ですが同じ禅宗です。 曹洞宗には江戸初期の僧で棄教しキリスト教に改宗し【妙貞問答】を著し仏教や 神道を批判した不干斎巴鼻庵(フカンサイバビアン)があります。 (禅寺で修行中は恵俊と言ったそうです。) 彼は後にキリスト教も棄教し修道女と駆け落ちしています。古今東西を問わず 男と女の愛慾は神仏をも越えるのでしょう。後に【破提宇子】(ハダウス・デウスを 破棄する)との本も書き、幕府のキリスト教弾圧に協力しています。キリスト教・神道・ 仏教に精通したバビアンの考えは比較宗教学の元祖とも言え、幕府のキリスト教 弾圧の思想的根拠にもなったのでしょう。 仏教もキリスト教も否定したバビアンの考え・思想を山本七平氏は日本教と名付け ました。遠藤周作の「沈黙」もバビアンや山本七平と、通じる物があるのでしょう。 敬虔な仏教徒とは言い難い私の様な輩を、日本教徒と言うのかも知れません。 バビアンも良寛も堕落した仏教に飽き足らず独自の宗教世界を捜し求めたのでしょう。 バビアンの時代にはキリスト教との選択肢が有りましたが、良寛の時代にはキリスト教 は禁教となり、既存仏教に飽き足らない良寛には乞食(こつじき)坊主になる他 無かったのでしょう。) 良寛は越後国出雲崎(現新潟県出雲崎町)の名主橘屋(及び神主)の家に 生まれますが、父の代から家運が傾き始め良寛にも立て直す事が出来 ず18歳で家督を弟に譲り出家します。しかし弟由之も家運を立て直す事 が出来ず、由之49歳(良寛53歳)の時に家財没収・所払いの処置を受 け家を潰してしまいます。 22歳の時備中玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に会い、生涯 の師と仰ぎ円通寺で12年もの修行を続けます。良寛34歳の時、師国仙 和尚の遺言「好きな様に旅をするが良い。」に従い諸国を行脚し生涯寺 を持たず、乞食(こつじき)・托鉢生活を続けます。国仙和尚は良寛の特異 な性向から普通の僧侶にはなれない事を見抜いておられたのでしょう。 曹洞宗に限らず当時の仏教は檀家制度に守られ、葬式仏教に成り下 がりお釈迦様の教えは元より法然・親鸞・栄西・道元等の先達の教えを 忘れ、徒に我が身の栄達を願い物欲色欲に溺れた僧侶が多かった様 です。(薬師寺の元管主の様に、現代の仏教界も似た様なものだと思いますが?。) その様な仏教界の状況に疑念を抱いた良寛は生涯檀家を預かるお寺 の住職にはなろうとせず、仏教の原点に戻り托鉢で生きる乞食坊主の生 き方を選んだのでしょう。(尤も当時の曹洞宗本山の永平寺が、こんな異端坊主を 住職に任命する訳はありませんが。) 48歳で越後に戻り昔の友人の助を得て故郷出雲崎の約20キロ北にある 国上村の国上寺の五合庵に定住し托鉢生活を始めます。 (34歳から48歳まで14年間も放浪生活、中国四国九州方面で乞食生活を 続けたと言われますが足跡は良くは分からないそうです。40歳頃には越後に 帰り空き家の漁師小屋を借りて托鉢(乞食)していたと言われています。) 堕落した仏教界に失望し寺を出、山に籠もり修行生活・或いは捨世僧と なり民衆に本来の仏の教えを教化しようとした僧侶は大勢おられますが、 良寛はその様な厳しい修行も布教活動もせず、托鉢生活を過ごすだけで した。 又漢詩から古今集・万葉集まで幅広い知識を持ち、付き合う人も学識 の高い人や詩歌に長じた風流仲間が多かった様です。 良寛程優れた書を書き漢詩や短歌・俳句の才能があれば檀家持ちの 住職にならずとも、文芸の世界で名を成し世過ぎする事は容易ですが、 その様な事も無く、只自分の趣味の世界だけを楽しんでいた様に思いま す。この様な良寛の生き方を考えると、もしかすると良寛は自閉症の傾向 が有ったのではないかと思ってしまいます。 世の中にまじらぬとにはあらねども ひとり遊びぞ我はまされる (こんな歌を詠み子供と遊ぶのが好きだったとは、人付き合いが苦手で孤独が 好きで・・・現代なら典型的な自閉症と言えるでしょう。 自閉症等の精神疾患も高い確率で遺伝するとの説を読んだ事があります。 知能と自閉症リスクには高い相関性があり、知能指数が10上がれば自閉症リスク は倍になるそうです。良寛は頭脳も良く自閉症的で特異な性格は遺伝かも知れませ ん。父山本以南も破滅型とも思えるインテリ文士で尊王思想にかぶれ京の鴨川で 入水自殺をしています。) 水上氏は触れていませんが、五合庵に住んだのは維馨尼(維経尼)の住 まいに近かったから、とも言われているそうです。 維馨尼は良寛より7歳年下で「おきし」と言い豪商三輪家の娘で良寛の 学友三輪左一の姪でもあり、良寛は勉学時代、おきしと仲良く遊んでい たそうです。 (良寛14~5歳の頃ですから、おきしは10歳以下の幼女です。 現代なら中学生が小学低学年の幼女とままごと遊びをしている様なもので、 ニキビ面の中学生が幼女と遊んでいれば、変態・痴漢・ロリコンかと幼女の 親は心配するでしょう。良寛は子供の頃から変わり者だったのです。) おきしは江戸の商人に嫁ぎますが30歳で寡婦となり実家に帰っていまし た。良寛様が私の様に後家狙いをしていたとは思いませんが、おきしに惹 かれていた事には間違いないと思います。 出家したのは良寛の勧めで、維馨尼との名前も良寛が考えたとの説もあ ります。おきしも実家が豪商とは云え出戻りの小姑生活を11年も続ければ 居心地が悪く、早く家を出たかったのかも知れません。 (私はついつい下司な勘繰りをしてしまいます。) 維馨尼は寺の用事で江戸に長期出張をします。この時維馨尼の体調を 心配した良寛の手紙(漢詩)が残されています。 維馨尼も手紙を大事に保管していたとは、単なる友人や師弟の関係以 上の深い想いがあったのでしょう。(これも下司の勘繰りです。) ・・・・・・(省略) 呼磋吾何道 ああ吾何をか道わん 天寒自愛 天寒し 自愛せよ ・・・・・・(省略) 恩人山河遠 思う人は(維馨尼)遥かなかなた 含翰思万端 文を書こうとするが色んな事が浮かび筆が進まない (翰とは羽で作った筆、転じて手紙の事) (思う人とは友達や弟子への思いでは無く、男の女への 思いだと、私は思います。(これも下司の勘繰りですが。) 良寛の維馨尼への深い愛情が偲ばれます。寺持ち和尚なら自分の寺 で出家させ同じ屋根の下で生活出来たのでしょうが、乞食坊主では如何 とも出来ません。ましてや自閉症ぎみで積極性に欠ける良寛は、手紙で 想いの丈を伝える事しか出来なかったのでしょう。 良寛は50代維馨尼は40代です。好きな女の為なら世間の非難など気 にせず泥水を啜る様な事があっても本望でしょう。二人が愛し合っていた のなら還俗して結婚生活を送る事も出来たのです。 (同時代の小林一茶は50で結婚し日に三交と頑張ったのです。) 維馨尼は江戸での無理がたたり帰郷後数年で亡くなります。逝去の知ら せを聞いて、良寛さんは泣き崩れたそうです。 五合庵に住んでからの良寛はその優しい性格と文芸の秀でた才能が高 く評価され、長岡藩主牧野忠精が城下に寺を建て良寛を住職として迎え たいと迄言ってくれましたが、「焚くほどは風が持てくる落ち葉かな」と断っ ています。(私は自然の恵みを沢山頂いてここで生活しており、これで充分満ち足りてい ます、との意味です。) 良寛とは優柔不断な男で積極的に人生を切り開いていこうとはせず、何 事にも受け身の生き方しか出来ず、困難な事から逃げてばかりの男だっ たのかも知れません。だから親の後を継いだ名主の仕事も満足には出来 なかったのでしょう。 尤もその様な性格だから書や漢詩・短歌・俳句と幅広く文芸の世界に没 頭する事が出来たのでしょう。 炎の女貞心尼 ![]() ![]() ![]() 良寛の墓 維馨尼の墓・左 貞心尼の墓 三人のお墓を並べましたが、良寛は維馨尼・貞心尼・どちらの墓の側に 眠りたかったのでしょうか?。 良寛70歳の時貞心尼(30歳)が訪ねてきます。(この時良寛は五合庵を出長岡 市の木村元右衛門宅の離れに住んでいました。) 貞心尼は長岡藩士奥村五兵衛の娘で、漢方医の関道順と結婚します が25歳で夫と死別し26歳で髪を落し尼になります。 (子供が生まれず離縁されたとの説もあります。) 74歳で良寛が亡くなるまで3年余りですが度々良寛の元を訪れ良寛の 世話をし、臨終にも立ち会っており、良寛の死の4年後、良寛との多数の 相聞歌(恋の歌)「はちすの露」との歌集を作成しています。 一般的には貞心尼を好意的に扱った本が多く、水上氏も美人尼さんで 信仰心厚く歌の心得もあり、良寛の最後を看取った女性と評価していま す。 (はちすとは蓮の花の事で、花茎が蜂の巣に似ている事から言われます。) (良寛の病気は大腸癌と思われ腹痛と下痢で悩まされた様で、貞心尼は下の世話迄 して献身的に看病したそうです。そこまでするとは、夫婦の様な関係だったのでしょう。) 逆に貞心尼を悪女?、とした説も多い様です。江戸末期の倫理観では 悪女になるのでしょうが、現代の感覚では積極的に自分の人生を切り開 いていこうとした、逞しい女性と言えるのかも知れません。 江戸末期、高貴な方ならともかく身分の低い女性で書や歌の嗜みのあ る方は少なかったと思われます。「はちすの露」の他「もしほ草」「焼野の一 草」等の歌集を作っておられます。 彼女は女流文学者の先駆けだったのです。貧乏医者に嫁いだ後も高価 な書籍を買い求め、姑から嫌われたとの話も伝わっているそうです。当時 は女性で文芸に秀でた方は少なく、教えを乞う方々も女性よりも男性が 多かった事が彼女の悪評に繋がったのかも知れません。 もう少し時代が下れば、平塚雷鳥・与謝野晶子・樋口一葉の様に時代 を代表する文人に成れたのかも知れません。 工藤美代子著「良寛の恋」(炎の女貞心尼)との本もお借りしました。 貞心尼は明治5年75歳で亡くなっていますが、新潟にお住まいの年寄り には、子どもの頃祖父母から聞いた良寛や貞心尼の逸話をご存知の方 もおられ、その様な方々の話しを丹念に集めておられます。 (新潟の方々は良寛和尚を敬愛される気持ちが強く、それだけに良寛と男女の 関係にあったかも知れない貞心尼を快く思われない方々が多く、ことさらに貞心尼 を悪く言われる方々がおられたのかも知れません。) 貞心尼(奥村ます)が飛びぬけての美貌の持ち主だった事は間違い無かっ た様ですが、父の奥村は長岡藩士とは云え僅か25石取の貧乏藩士で 嫁ぎ先の関も貧乏医者だったそうです。その上、貞心尼(ます)は身持ちが 悪く男出入りが 激しい為離縁されたとの話しもあり、夫と死別したのでは 無かったとも言われているそうです。 出戻った後も男出入りが絶えない為、家族は堪らず娘ますを出家させ尼 にしたのが真相だと言うのですが、出家後も美人尼さんなので村の男衆 には「尼姉さん」と人気があったそうです。 (当時は女性が一人で生きていく事は難しく、その上文芸の勉強をしようとすれば 出家する事が最適だったのでしょう。・・・・とは言え尼姉さんの人気とは?。 私は直ぐにスケベな事を考え、お布施を持ってお伺いしたくなります。) 良寛和尚に近づいたのも、良寛の弟子との看板が欲しかったのだと言わ れる方もおられるそうです。良寛の死後、貞心尼は良寛の弟子との看板 に釣られた近在の文芸好きの旦那衆から様々な援助を受けていて、奥 様方からは嫌われていた様ですので、こんな悪意に満ちた見方をされる 方もおられたのでしょう。 (当時は墨も紙も高価で和歌の勉強をするにもお金が必要で、貞心尼は旦那衆 の援助を受けざるを得なかったのでしょう。美人の尼さんです。私の様なスケベな 旦那もおられ、見返りを求める様な輩もおられのたかも知れません。) 「はちすの露」では、初めて良寛に会った時貞心尼は 君に斯(か)く相見ることの嬉しさも まだ覚めやらぬ夢かとぞ思ふ・・・・・と詠っています。 (本日は夢にまで見た良寛様にお会いする事が出来、この喜びを何に例えたら 良いのでしょう。もう嬉しくて夢の中にいる様でございます。) これは紛う事無き愛の告白の歌です。美貌で30歳の女盛りの尼さんが 70歳のよぼよぼ爺さんを、色仕掛けで篭絡しようとしているのです。 百戦錬磨の貞心尼の甘言に、初心(ウブ)な良寛は簡単に引っ掛かって しまい、次の様な歌を詠んでいます。 心さえ変わらざりせば這う蔦の 絶えず向かはむ千代も八千代も (相手を恋慕う心さえ変わらなければ、千年も万年もこの庵で向かい合って楽しく語り 合いましょう。木を這い登る二本の蔦がしっかりと絡み合い離れる事が無い様に。) 夜通し語り尽くし、翌朝貞心尼が帰ろうとする時にも歌を贈っています。 またも来よ柴の庵(いおり)を厭(いと)はずに 薄尾花(すすきおばな)の露を分け分け 狭い庵の中で一晩中膝突き合わせていたのです。(三日も過ごしたとの説も あるそうです。)そして、叉お出でなさいなどと迄、言っているのです。 貞心尼の庵は25キロも離れた所にあり、途中渡し船にも乗らねばならず 、良寛に会うには丸一日歩かねばならず、冬の雪の中では訪れる事は 困難だったと思います。少し訪問が遅れると 君や忘る道や隠るるこの頃は 待てど暮せど音信のなき と貞心尼の来訪を促しています。 良寛は完全にメロメロにされてしまったのです。 貞心尼は いかにせむ学びの道も恋草の しげりて今はふみ見るも憂し・・・・・・・・・・と詠い 良寛は いかにせむ牛に汗すと思いしも ・・・(牛と憂しをかけています。) 恋の重荷を今は積みけり・・・・・・・と返しています。 70の爺と30の後家が、恋し愛し合っているのです。羨ましい限りです。 著者の工藤美代子氏は「いささか大胆な仮説かも知れないが、良寛と 貞心尼は初めて会った夜に結ばれた。なでなら貞心尼はそのつもりだった から」と言っておられます。 しかし実際はどうだったのでしょうか?。70歳の爺さんですよ!!。当時は 栄養状態も悪く、マムシやスッポン位は有ったのでしょうがバイアグラやシリ アス等は無く、そんな元気が残っていたのでしょうか?。同じ様に乞食生 活を送った山頭火は51歳で「性慾もなくなった雑草の月かげで」と詠んで いるのです。中折れ半勃ちはおろか、泥鰌の様に縮こまったオチンチンで は結ばれようがありません。精々「69」シックスナイン位で性行為の前戯・ 真似事をしていただけだと思うのですが。 (30後家は立たずと言われます。性の喜びを知った30代の女性は後家を通す 事が出来ないとの意味です。私は山頭火や良寛とは異なり精のつく物を食べて いますので貞心尼の様な美人相手なら、バイアグラ無しでも立派に勃つ自信が ありますが、相手のいない事が寂しい限りです。) 良寛より350年昔ですが、一休宗純は77歳にもなって盲目の美女「森女 (しんじょ)」と同棲し、「狂雲集」にスケベな漢詩を残しています。 「美人陰有水仙花香」 (森女の女陰は水仙の香りがする。・・・これは片男波、即ちクンニをしていたのです。) (余談ですが、片男波の語源は萬葉集の山辺赤人の歌「潟を無み」だそうです。相撲 部屋にも片男波部屋が有りますが、どうしてクンニリングスの事を片男波と言うのでしょう か?。若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る) 一休は臨済宗、良寛は曹洞宗ですが同じ禅宗です。これ程までにメロメ ロにされた良寛は、一休を真似てオーラルセックス(口腔性愛)をしていたの かも知れません。 尤も狂雲集によれば、一休禅師はクンニだけでは無く森女と性交を楽し んでおられます。77歳にもなってViagra無しでも可能とは??。 森女は福原のソープ嬢も顔負けの卓越したテクニックをお持ちだったので しょう。良寛も床上手な貞心尼のテクニックに助けられ、太く逞しく勃ち上 がり二人で法悦の喜び、悟りの世界?を楽しんでおられたのかも知れま せん。 真言宗の理趣経では、男女交合し悦なる快感を味わう事は清浄なる 菩薩の境地と教えておられますが、曹洞宗や臨済宗にもこの様なお経が 有るのか、私は勉強不足で存じません。 (良寛は出家する前に結婚していましたが、橘屋の経営悪化に気付いた嫁の親 が、関わりになる事を恐れ嫁を連れ帰ったとも言われています。50年以上禁欲 生活を続け、初めて性の喜びに目覚めたのです。貞心尼の虜になるのも解ります。) ![]() ![]() ![]() 狂雲集 歓喜仏 理趣経 ついでですから、「狂雲集」美人陰有水仙花香、の続きです。 楚台応望更応攀 (宮廷の女性は眺めて、更によじ登るべきである。) 半夜玉床愁夢顔 (夜半、豪華な寝台に美女の愁い顔がある) 花綻一茎梅樹下(花(女陰)は梅の木(男)の下にある一茎で綻(ほころ)んだ) 凌波仙子纏腰間(水仙の花(森女の女陰)は、わが腰のあたりに纏わりつく。 一茎とは男根で綻とは花が開く事を言い、一休の男根は勃起し、森女の女陰 は開いて一茎を受け入れた。即ち性交を楽しんでおられるのです。 77歳でもこんなに元気なのです。・・・・私もまだまだ頑張らねば・・・。 凌波仙子とは波の上を渡る仙女、転じて水仙の花の事・・・中国古典より。 叉、婬水 との詩では 夢迷上苑美人森 (夢の様な美しい庭園で森女と愛し合っている。) 枕上梅花花信心 (枕上に咲く梅の花はあなたの心そのものだ。) 滿口淸香淸淺水 (女陰の香りで口を満たし、淫水を呑み恍惚となり) 黄昏月色奈新吟 (黄昏の月明かりの下、新たに歓喜のよがり声をあげる。) 淫色吟身頭上雪との詩もあります。(七言絶句の三句目) スケベな事ばかり考えていたので頭髪は真っ白になった、との詩ですが 私もスケベな事ばかり考えていますので、一休と同じく白髪頭になって しまいました。 狂雲集には千首以上の漢詩が収められており、スケベな詩は極一部ですが、 私はスケベの詩のみを探して読んでいます。) 追記 4月7日 大阪の地方選で維新の会の吉村知事・松井市長が快勝しました。 私は大阪府民でも大阪市民でもありませんが、維新の会を応援していま したので、嬉しく思っています。今後の大阪都構想の展開が楽しみです。 自公から共産党までもが選挙協力しても維新に勝てないとの今回の選 挙結果を見て、公明党本部は今夏に予定されている参議院選挙を控え (衆参同日選挙も噂されています。)維新の会を敵に回したくは無いはずです。 公明党本部の指示に従い都構想が進展するのか?、それとも府・市会 議員は本部意向を無視して反対を続けるのか、他人様の事ながら面白 く見物したいと思っています。(府会議員市会議員の選挙結果は未だ分かりません) 4月8日 朝一番に新聞を見ました。兵庫県民にも拘わらず兵庫県の選挙結果より も大阪の選挙結果が気になりました。 新聞には大きな見出しで「大阪ダブル選維新勝利」と出ており、維新の 会は大阪府会では過半数を会得出来、市会では残念ながら過半数に は後2議席足りませんでしたが40議席と躍進しました。 昨日書きました様にこれからの都構想の行方が楽しみです。 |