私は底の浅い男で、そろそろエロ話の種も尽きてきまいりました。
そこで話の種にと、若い頃読んだ称徳天皇と道鏡の逸話を暇に飽かせ改めて調べました。
(暇に飽かせて・・・・・金に飽かせて、の様に有り余っている物を使って
暇にまかせて・・・・・・なりゆきにまかせて・・・・・この様な違いがあるそうです。)
お二人の話は御存知の方も多いと思いますが・・・・。
真偽の程は分かりませんが、お二人の醜聞を種に江戸時代面白い川柳が作られています。
歴史作家井沢元彦氏は「逆説の日本史」でその様な淫らな事は有りえないと否定されていますが、男性天皇は羨ましいハーレム生活を過ごしておられた訳で、女性天皇も私生活では、おおいにご活躍されておられたやも・・・知れません?。
道鏡は座ると膝が三つでき (道鏡の巨根伝説)
道鏡に崩御(ほうぎょ)崩御と詔(みことのり)
道鏡に根まで入れろと詔
村じゅうのみみずを洗う弓削の母
(ミミズにおしっこをかけるとチンチンが腫れ、ミミズを洗って
やれば腫れがひくと言われています。道鏡は子供の頃から大きな
チンチンを持っていたとの川柳です。)
藤原百川伝には更に酷い事が書かれています。
称徳天皇が御病気で長期に休まれた時、「朝を視ざること百余日・・・・・」 日夜 道鏡との性交に耽り、陽物(オチンチン)が抜けなくなった為だとい言うのです。
(藤原百川は不比等の孫で仲麻呂の従兄ですが、大変な策士で称徳天皇
の没後遺書を偽作し、光仁天皇・更に桓武天皇へと皇位を繋ぎ天武系
皇統から天智系皇統に変えてしまいました。天皇の遺書を偽作する様な男
ですから、藤原氏の権勢を強化する為なら、称徳天皇や道鏡の事を歪曲
したり捏造してことさら悪く書く事など平気だったのでしょう。)
日本霊異記にも、不謹慎にも称徳天皇と道鏡の事が面白可笑しく書かれています。
我が黒みそひ股に宿(ね)給え、人と成るまで
現代語訳
私の黒い陽根を股に挟んで寝て下さい。
私が僧侶から一人前の人となるまで(セックスが上手になるまで?)
法師を裳着(もはき)とな侮りそ。そが中の腰帯に薦槌(こもづち)
さがれり、いや発(た)つ時々かしこき響きや
現代語訳
法師(道鏡)を侮ってはならない。腰帯のあたりに、木槌(きづち)が
下がっている。それが そそり立つごとに、ありがたい音色(称徳天皇
の喜悦のお声?)が響く。
この様な文章が元になり道鏡巨根説が生まれたのかも知れません。
孝謙天皇(称徳天皇)は藤原系の最初の天皇です。奈良平城京の時代、聖武天皇と光明皇后(藤原不比等の娘)の娘として生まれ「阿倍内親王」と呼ばれました。当時の皇位争奪の争いは凄絶で肉親が血を血で洗う様な争いもあった様で、聖武天皇の息子「基王」(もといおう・阿倍内親王の弟)が二歳で夭折した時、反藤原の筆頭で左大臣の「長屋王」(天武天皇の孫・蘇我系)の呪いの所為だと、無実の罪で長屋王一族を殺害しています。
長屋王は皇族の出身ではない光明皇后(藤原氏の出身)の子供「基王」が皇太子になる事に反対した為、藤原氏に恨まれていたのだと思います。
その時襲撃した藤原四兄弟(光明皇后の兄・称徳の叔父)は長屋王の祟りで次々と怪死してしまいました。
(疱瘡で亡くなったとの説もあります。当時は医療知識は少なく、貴族は
偏食や過食による糖尿病や脚気・庶民は逆に貧困による栄養失調で、
共に免疫力・抵抗力が少なく又良い薬も無い為、一度天然痘や麻疹
(ハシカ)その他の疫病が流行ると大勢の方が亡くなられたそうです。)
聖武天皇は次は自分が呪われる番だと恐怖におののき、ノイローゼ状態になり、都を信楽や大津・浪速へと次々遷都したそうです。
奈良東大寺の大仏建立は国家鎮護が目的と言われていますが、長屋王の呪い封じの目的もあったと言われているそうです。
聖武には今一人「安積(あさか)親王」(蘇我系・阿倍内親王の異母兄弟)がおられ長屋王の呪いを解く為には、藤原系の阿倍内親王に皇位継承せず蘇我系の安積親王に皇位を譲りたかったのですが、17歳で謎の死をとげます。脚気で死亡したとの説も有りますが、藤原仲麻呂が殺害したとも言われています。
(仲麻呂は故藤原武智麻呂(前記の藤原4兄弟の一人)の息子で
光明皇后の甥・阿倍内親王の従兄、仲麻呂のお陰で孝謙(阿倍内親王)
は天皇になれたとも言えます。仲麻呂はこの後太政大臣まで出世しますが、
後に称徳天皇時に反乱を起こし殺されています。)
度重なる不幸に心身崩壊寸前の聖武は阿倍皇太子に譲位します。「孝謙天皇」です。孝謙31歳の時で以後9年在位し40歳で「淳仁天皇」に譲位します。孝謙天皇(称徳)はかなり我がままな天皇だった様で、父聖武より指名されていた皇太子「道祖王」(ふなどおう・天武の孫)を父聖武死亡後嫌いだからとの理由で廃し、淳仁天皇(天武の孫・仲麻呂と仲が良かった)を立てたそうです。
(藤原の勢力を維持したい仲麻呂の策略と思われます。)
その時孝謙は反対派の方々をこれが天皇のお言葉か?と思われる程、汚い言葉で罵ったとの記録もあるそうです。
(丁度、韓国航空のナッツ女王様の様な方だったのかも知れません)
俗説によれば称徳天皇(孝謙天皇)は当初藤原仲麻呂と良い仲で(男女の仲)、大仏開眼供養の時(孝謙天皇33歳)藤原仲麻呂の屋敷にお泊りされたそうです。仲麻呂は無実の罪で長屋王を死に追いやった男の息子にも拘らず、孝謙天皇や光明皇后の引き立てにより太政大臣にまで出世しましたので、妬み・やっかみからそんな噂が立ったのかもしれませんが?。
(祖父の藤原不比等が大宝律令を作り、仲麻呂は実情に合わせ改良を加え
養老律令を作り、二人で日本の律令政治の基礎を作った有能な政治家です。
又権勢欲の強い男だったそうで、当時道祖王や吉備真備を初め反孝謙・
反藤原の勢力も強かったので、そんな危険を冒すとは思えません。
仲麻呂には他にお付き合いしている女性は沢山おられたのですから。
孝謙も12歳年上の従兄で頼りになる叔父様の様な感覚だったのでは無いでしょうか。
40歳で淳仁天皇に譲位しますが太上天皇として実権は握っていました。46歳の時、近江の保良宮(ほらみや)で病み、臥せっている時祈禱師として派遣されたのが道鏡です。道鏡の年齢ははっきりしませんが4~5歳年上ではないかと言われています。
東大寺の良弁の元で修業を重ね全ての経典を読みつくした大変な秀才でした。
(葛城山にこもり苦行を重ね、呪術による修験を習得したとの説もあります。
葛城山は、七世紀末に役の行者が修行して修験力を得た山であり、
呪術的能力を身につける為の修行の地であったそうです。)
病気平癒を願い一睡もせず懸命に祈り続ける道鏡の姿に純粋な献身の姿を見、孝謙は余程感動したのでしょう。そして今迄仲麻呂達は自分達の権力掌握の為に孝謙を利用していただけなのだ!!と、気付かれたのでしょう。
権謀術数に明け暮れ欺瞞に満ちた宮廷生活しか知らなかった孝謙は初めて無償の献身・無償の愛の世界を知ったのです。
泥中に咲く一輪の蓮の花を見る思いだったのでしょう。
尊敬と信頼が愛の思いに変わり二人の仲が急速に深まるのも自然の流れと思います。
遅すぎる青春の目覚めとでも言いましょうか。
40半ばで始めて知っためくるめく官能の世界!!もう誰にも止められません。
余談
私流に助平な解釈をしますと、俗に「30させ頃・40したがり・50ござかき」
と言われます。今はござは使われませんが畳ですね、畳を掻きむしる程
気持ちが良いとの事です。
調べますと「60ろくに濡れずとも」とありました。70は何と言うのでしょうか?
私も古希を迎えましたが、70と言えば九鬼謙太と笙子を思い出します。
70を過ぎた婆さんが年齢のくびきを越えて燃え上がる鮮烈な愛と性!!
(数年前、岸恵子氏が発表した小説「理(わり)なき恋」の主人公です。
私小説で70歳の岸恵子氏と元デンソー副社長の岩月伸郎氏との
不倫関係の暴露本だと言われています。男も女も幾つになっても性愛の
世界から逃れられないのでしょうね!!・・・)
時々テレビでお見かけする岸さんは、とても若く82才とは思えません。
岩月氏と別れた後も、誰かさんと素敵な恋をされておられるので、何時までも
若さを失わないのだと思います。??。
私も、岸さん岩月さんの様に何時までも若さを失わない様、頑張りたいの
ですが・・・・・!!怖い怖い山の神の厳しい監視の元では、儚い妄想の
世界をさ迷うばかりです。
仲麻呂は淳仁天皇を通じて道鏡との関係を諌めさせましたが、孝謙は激怒され天皇から大事・賞罰の大権を奪いました。
仲麻呂は軍事権を掌握しており、孝謙も俺が天皇にしてやったのだ、との驕りもあり、仲麻呂の進言に従わなくなった孝謙に反乱を企てますが(恵美押勝の乱)、孝謙の手が一歩早く反乱は失敗に終わり仲麻呂一族は処刑されてしまいます。
(当時中国では安緑山の乱があり唐の力が衰えた為、その間隙を突き新羅を
挟み打ちにしようと朝鮮半島北部の渤海から使者が来ました。仲麻呂は
チャンス到来と新羅討伐の為、軍隊の編成・軍船の建造等を行いましたが
安緑山の乱が早期に鎮圧された為出兵は中止されました。
(663年天智天皇と藤原鎌足は百済救援の為朝鮮出兵を行い、白村江で
唐・新羅連合軍に大敗しています。仲麻呂は姐祖父鎌足の復讐戦を行いた
かったのかも知れません。)
この様な事が反藤原派の結束を強化させたのかも知れません。反藤原の
吉備(きび)や漢氏(あやし)、秦氏(はたし)等が孝謙を応援したそうです。)
その後、淳仁天皇を廃し孝謙上皇が重祚し称徳天皇になられました。
(淳仁天皇は淡路島に流されそこで死亡されています。一説には称徳に
殺害されたとも言われます。 淳仁さんも愚かですねえ!!
男と女の仲、ましてや40過ぎて初めて知った愛(性)の喜び
注意などされても止める訳がありません、恨みを買うだけですよ!!
特に40過ぎのヒテリーぎみの女性に意見するなどと・・・・・
私などは奥様に意見するなどと、そんな恐ろしい事は考えた事もありません。
いつも奥様の命じられた事に忠実に従っています。)
称徳46歳から52歳で亡くなられるまで6年間称徳天皇と道鏡(法王)との共同治世が行われました。
(道鏡の弟が大納言に昇進するなど、彼の一門が10人程五位以上に昇進
しましたが、当時は身内を引き立てる事は当然の事で、特に非難される事では
無かったのでしょう。当時平城京の官人には30階の位階があり内五位以上の
貴族は200人弱で、五位と六位の壁は大きく六位の役人の年収は五位の
貴族の10分の1以下、現在価格に換算し約160万円位だったそうです。
30位の底辺の役人は年収60万円程だったそうです。多分家族を田舎に残し
単身赴任をされていたのでしょうが、どの様な生活だったのでしょうか?。
万葉集に山上憶良の「貧窮問答歌」がありますが、憶良は従五位の貴族で、
彼自身は貧しい生活では無かったと思われますが、彼の使用人や部下には
極めて貧しい人々が大勢おれれたのだと思います。
この間有名な宇佐八幡神託問題(道鏡を天皇にとの神託)や和気清麻呂の神託虚偽との上申(九州の宇佐八幡に行き道鏡への皇位譲位は神意では無い)などが起こります。
称徳天皇は阿倍内親王の頃に受戒しており熱心な仏教信者でした。即ち仏の弟子が天皇になられたのです。
(父聖武天皇も譲位直前に出家しておられ母光明皇后も熱心な仏教徒でした。)
自分の子供がいない称徳が仏教の師匠でもあり最も信頼する道鏡に天皇位を譲り平和で豊かな仏国土を造ろうとしたのだと思いますが、血統を重視する皇族・貴族社会には受け入れられなかったのでしょう。
しかし、当時藤原仲麻呂を倒し、淳仁天皇を廃した絶対的権力を持つ称徳天皇に刃向かうとは、和気清麻呂とは勇気有る正義漢か余程の偏屈男だったのでしょう。その為和気清麻呂は名前を「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と変えられ鹿児島に流罪にされます。翌年称徳天皇は崩御された為、別部穢麻呂は都に帰り、元の和気清麻呂に戻り出世する事が出来ました。
(日本略記・古事談・水鏡等には称徳天皇は山芋を性具・張型
(オナニーグッズ)として使用し体内で折れて抜けなくなり、それが原因で
お亡くなりになられた、との極めて不敬な記実があるそうです。
この話も称徳天皇や道鏡をことさら悪く非難する為の創作話だと
思いますが?)
冒頭で紹介させて頂いた井沢元彦氏のお説の様に、お二人に男女の関係は無かったと考えると余りにも寂しくお気の毒です。
私は御二人が短い期間ですが幸せな夫婦生活を過ごしたと考えたいと思います。
又ロシアの怪僧ラス・プーチンも巨根で皇后との愛人関係が噂され、良く似た話ですが、道鏡にはラスプーチンの様な野望は無かったと思います。
道鏡は称徳天皇の陵の前で長い間冥福を祈っていたそうです。
けっして皇位を望んだりはせず、称徳天皇への愛を貫き無償の献身を捧げたのだと思います。
稱徳天皇高野陵(しょうとくてんのう たかののみささぎ)は、全長127mの
前方後円墳で、平城京の北西方面徒歩15分位の所にあります。
道鏡は物部氏の一族「弓削」氏の出身説又天智天皇の孫との説もあり、
称徳天皇崩御後、下野の国(栃木県)の薬師寺別当として生涯を終えます。
(別当とは寺務を統括する長官に相当する僧職。)
当時戒壇(戒律を授け僧尼を任命する場所)は奈良の東大寺・筑紫(福岡)
の観世音寺・下野の薬師寺の三寺しか設けられず、「本朝三戒壇」と言われ
格式の高いお寺ですので、左遷ではありますが高い地位を与えられた訳で
破戒坊主として僧籍剥奪された訳ではありませんので、井沢氏の説が正しく
俗説の称徳天皇の愛人説は藤原百川等の作り話かも知れません。
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