教信寺                 平成26年4月
  教信寺本堂と熟美女   教信沙彌のお墓
  教信のお墓の前庭   教信寺山門

3月始め、まだまだ寒い日でしたが、兵庫県加古川市(神戸市の西・姫路市の東)の教信寺にお参りしてきました。
平安時代初期に建立されたお寺で、室町時代には堂宇十三・僧坊四十八を数える大伽藍になっていた記録がありますが、度重なる戦乱に見舞われ何度も焼失し、現代の本堂は明治十三年、書写山圓教寺の念仏道場を移築した物だそうです。境内には桜の木が多く、お寺の説明書には桜満開の美しい写真が掲載されていました。
(3月31日灘区・王子公園で満開の桜を見てきました。今頃は教信寺も桜の花に包まれているのでしょう)

教信
(781〜866年)は教信沙彌(さみ・しゃみ)と呼ばれ、奈良興福寺で修業していた若き僧です。仏教教学を会得し仏教心理学や論理学においては彼の右にでる者はなく、彼を知る都の僧俗からは長老たる器としてうわさされていましたが、彼自身心の空虚を満たすことは出来ず、奈良仏教に失望し世俗的な私利栄達を求めず、ひたすらに真実の生き方を希求し諸国巡錫(じゅんしゃく)に旅立ったのでした。
(興福寺を出られたのは、僧に成る為の具足戒を受ける前、二十歳以前と思われ、空海や最澄が遣唐使として派遣されたのは804年ですので、ほぼ同じ頃と思われます。沙彌とは修業中の若い僧や、剃髪しているが妻帯している僧の事を言い、正式の僧侶ではありません)

空海
(774〜835年)や最澄(767〜822年)と同時代の僧侶ですが「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え諸国を巡り、やがて(836年55歳の頃)加古川の畔に庵を構え、布教活動を行いました。彼は経典も持たず仏像すら安置せず、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と口称念仏を実践し続けました。
日本における口称念仏の先達者として空也
(903〜972年)・源信(942〜1017)・法然(1133〜1212年)・親鸞(1173〜1262年)・一遍(1239〜1289年)・等が知られていますが、教信は空也上人に先立つ事120年・源信に160年余・法然・親鸞には350〜400年も早く浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)に帰依し口称念仏を実践されておられたのです。
(あまりにも早く生まれ過ぎた悲運の天才仏者、などと考えるのは私の様に信仰心の薄い輩で、教信自身は念仏人生に満足されておられたのでしょう。)

教信は農民のために農耕を手伝い、旅人を助けて荷物を運びながら布教活動を続けたので、人々からは阿弥陀丸とか荷送り上人と呼ばれていました。農業用水用の溜池を作ったとの話も伝わっています。又教信を慕う女性と結婚し子供も生まれました。親鸞聖人の生まれる400年も前に、宗教者として親鸞と同等あるいはそれ以上の生き方をされておられたのです。
沙彌を自称した教信・愚禿と自称した親鸞、禿とは髷を結わず、剃髪もしないザンバラ頭の非人の事を言います。沙彌・愚禿・共に非僧非俗を意味し、御二人共妻帯され、おそらく宗教的には同じ様な境地に到達されておられたのだと推察いたします。
親鸞聖人が理想的先輩と仰いだ事も当然と思います。
(親鸞聖人がこの教信沙弥を目標にすると述べていた事を、曾孫の覚如上人が『改邪鈔』にて書き残しているそうです。)
又一遍上人も教信寺で死にたいと願っていたのですが、途中神戸の真光寺で亡くなられました。
(神戸市の紹介NO2に真光寺と一遍上人のお墓の写真を掲示しています。)

浄土真宗では親鸞聖人以前に浄土教を広めた高僧として龍樹菩薩以下七人の高僧を定めています。日本人では源信と法然が選ばれていますが、教信こそ高僧の一人として選ばれるべきと思います。空海や最澄に勝るとも劣らない仏教の先達者として、もっと評価されても良い御方だと思います。
(龍樹菩薩とは昨年「色呆け爺」の項目でお知らせさせて頂きましたが、透明人間になりインド王宮の宮廷女性を強姦し続けた男です、強姦魔でも菩薩になれるのです、仏教とはなんと素晴らしい教えなのでしょう。私も早く仏教の勉強をしておれば、菩薩になりたいとまでは思いませんが、性にもっともっとおおらかになり、大勢の女性とお知り合いになり、歓喜に震え随喜の涙を流す事が出来たのでしょう)

「ずいき」とはハスイモ
(里芋の近縁種)の茎を干した物で本来は保存食でしたが、江戸の頃より「肥後ずいき」はコケシ形性具として利用されたり、お湯で戻しチンチンに巻き付け使用されたとの事です。残念ながら私は使用した事が有りませんので使用感は分かりません。

「随喜の涙」とは「喜びのあまり溢れる涙」との意味ですが、夢想国師の歌と肥後ずいきから連想し性の絶頂感・射精・等を意味する様になりました。 
  いもの葉に置く白露のたまらぬは これや随喜の涙なるらん・・
夢想国師
夢想国師は室町時代の禅宗の高僧で京都の天龍寺や西芳寺の庭園の設計者です。芋の葉の上の水玉の情景を詠った歌が、とんでも無いエロ歌に変えられ、夢想国師も後世の人々の柔軟すぎる発想に苦笑されておられる事でしょう。

私、宗教には薄っぺらで表面的知識しか無く、今回書かせて頂いた事柄も間違っている所が沢山あると思います。又何事もエロ話と結び付けてしまいますが、あまり厳しく追及などなさらず、又阿呆が詰まらぬ事を書いとるな!!と優しいお気持ちでお読み頂ければ幸いです。

昨年、在原業平の歌の解説書を読んでいて伊勢物語の「身を要なきものに思ひなして」の一文の解釈から、西行の出家隠遁生活・一遍上人の「身をすつるすつる心をすてつればおもいなき世にすみぞめの袖」の歌の解釈そして教信沙彌まで解説が進み、初めて教信沙彌の事を知り、加古川のお寺までお参りさせて頂きました。
本を読んでいた時は一連の解説を理解したつもりでいたのですが、僅か数カ月ですっかり忘れてしまいました。
(物忘れの酷い事、痴呆になり徘徊する日も近いのでしょう。)