てふてふひらひら
    いらかをこえた
        種田山頭火  平成24年6月


先日妻と二人で散歩の途中、田圃の畦道を歩いていた時、蝶々が二匹上になり下になり仲よく舞っているのに出会い、この句を思い出しました。
確かに蝶々が舞っている様子は「蝶が舞う」ではなく「てふてふひらひら」の方がこの情景を美しく伝える事ができます。しかし次の「いらか」でふと疑問を感じました。甍
(いらか)とは私には大寺院の屋根瓦とのイメージが有るのです。農家の屋根瓦や農作業用の小屋の瓦などは思い浮かびません。
三好達治の詩に
    ・・・・・・・・・・・・
    をみなごに花びらながれ  
をびなご(若い女性)
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    み寺のみどりにうるほひ 
甍(いらか)
    ・・・・・・・・・・・・・・・   
この様な詩が有ったようにおもいます。
又井上靖の小説「天平の甍」は鑑真の話ですので甍とは唐招提寺の甍だと思われます。
(一銭にもならないこんな事だけは憶えています。)

蝶が大寺院の屋根の上まで飛んで行くとは思えません。
山頭火と蝶は山の上に居てお寺を見降ろしていたのか・・・?
それとも山頭火は放浪の旅に疲れ果て、草叢に座りこみあるいは寝っ転がって蝶を見上げていたから、屋根より高く見えたのか・・・?
後者に違い無いと思います。

山頭火を初めて知ったのは20数年前、当時私は証券会社に勤めており、バルブ崩壊後の後処理に悪戦苦闘の日々を過ごしていた頃です。証券雑誌「株式日本」の連載コラムに山頭火の句が紹介されており、我が身を山頭火に置き換え、面白い句と毎号楽しみにしていましたが、ノルマ・ノルマに追いまわされる毎日で何時しか忘れてしまいした。
先日、図書館で山頭火の句集と解説書を見つけ 懐かしく早速お借りし、又いつでも読める様にと古本屋で、句集を買ってまいりました。
この歳になり、こんな勉強をした所で俳句の才能が有るわけでも無く何の役にも立ちません。単なる自己満足にしか過ぎませんが、一銭の儲けにもならない事でも楽しく学べる事が、心豊な生活だと思い、又年金生活ですので現役時代に比べ収入は大幅に少なくなりましたが、今の暮らしで充分と自画自賛しています。
 自己満足・自画自賛・・・マスタベーションと同じ事か!!
                との自嘲の思いもありますが?
私が面白いと思った句を幾つかご紹介します。

    寝たいだけ 寝たからだ 湯にのばす
          
 (この句は3年前湯布院の風呂場でみつけました)

    分け入っても分入っても青い山

    うしろすがたのしぐれてゆくか

    まっすぐな道でさみしい

    超えてゆく山また山は冬の山

    空へ若竹のなやみなし

    うどん供えてわたしもいただきまする

    しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

    ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

    どうしやうもないわたしが歩いてゐる

    だんだん似てくる癖の 父はもうゐない

    ちんぽこもおそそも湧いてあふるる湯

ちんぽこの句は山口県の湯田温泉の千人風呂で詠んだそうです。私も一度行ってみたいと思っています。

山頭火の家は山口県で「大種田」と言われた程の大地主でしたが、お母様が父の放蕩と姑との確執で自殺されています。この事が山頭火の生き方に大きく影響したのかもしれません。父は放蕩だけでは無く相場でも大損をし
(米相場だと思います)又、酒造りの事業にも失敗し没落してしまいます。
山頭火も生活力の無い男ですが父親も愚かなお坊ちゃまだったのです。
(後年父と弟も自殺されています)。
没落後山頭火は妻子を捨て放浪生活に入るのですが奥様が
(大種田の頃結婚しているので良家のお嬢様です)しっかりされた方で小さな商売をしながら一人息子を育てました。昭和15年に松山市で山頭火58歳で亡くなり、息子は葬儀に参列しましたが奥様は拒否されたそうです。(離婚していましたから当然ですが、山頭火を心底嫌っていたのでしょう。)

自由律
(五七五調や季語にこだわらない俳句)の俳人には荻原井泉水や尾崎放哉がおられ、放哉の句碑が須磨浦公園に建てられています。

     こんなによい月をひとりで見て寝る

放哉は山頭火以上の変わり者
(嫌われ者)だったようです。東大を出てサラリーマンをしていながら酒癖が悪く勤務態度も悪い為、何度も退職を繰り返し とうとう奥様とも離婚し、みかねた井泉水の紹介で各地のお寺の寺守などをしていたそうです(ほとんど居候ですね)。しかし東大卒を鼻にかける嫌な男だったそうですが、須磨寺にも大正13年に9ケ月程滞在し沢山の句を残しています。結核を患い大正15年小豆島の西光寺で41歳でで亡くなりました。
放哉死ぬ前の句です。
     
     咳をしても一人

     これでもう外に動かないでも死なれる

山頭火も放哉も自由奔放を通り越した破天荒な
(無茶苦茶とし良いようが無い)生涯を送っています。生活破綻者と言うよりは性格破綻者(異常)と言っても過言では無いと思います。とても私如きには真似も出来そうにありません。(当然才能もありませんが)
しかしこんな人の作品が大勢の方々に読まれているの何故なのでしょう?。彼らの様な自由奔放な生き方に憧れるのでしょうか?。

先日道頓堀の松竹座で「ザ・オダサク」を見てきました。 姿月あさと と関ジャニの内博貴が主役で山崎静代
(南海キャンディーズ)も出演していました。夫婦善哉の作者織田 作之助の物語です。当時、織田は上流階級文学・白樺派に対抗して新戯作派(無頼派)と言われていましたが文芸界の大御所「志賀直哉」からは「太宰治」達と同じく文学では無いと強く非難されていたそうです。オダサクも太宰も女にだらしなく、又若くして結核で亡くなっています。
若くして亡くなる。認められず不遇の内に亡くなる。そんな所に山頭火や放哉との共通点があるのでしょうか?。弱者を応援したくなる、所謂 判官贔屓なのでしょうか?

荻原井泉水は芸術院会員にもなり91歳迄長生きされました。
そう言えば私は井泉水の句を読んだ事が有りません。井泉水よりも山頭火に惹かれるのは、私も彼らの自由奔放な生き方への憧れなのか?。それとも判官贔屓なのでしょうか?